【ダダイスム】既存の芸術を否定する『反芸術』絵画について解説

 

アクリル絵の具で描いた作品


【薔薇】Ver.2.0

 

こんにちは絵描きの川原です。

さて今回は【ダダイスム】についてお話していきます。

残る西洋美術史は『シュルレアリスム』のみとなってきました。
ここまで1年ちょっと記事を書き続けてきましたが、次回で最終回です。

1910年代半ばに興った芸術思想・芸術運動のことで
【ダダイズム】【ダダ主義】或いは【ダダ】と呼ばれます。

それでは解説していきます。

 

 

ダダイスムとは


ダダ初個展のグランドオープニング 1920年6月5日ベルリン国際ダダ展

 

1916年、第1次世界大戦の戦火を逃れ中立国スイスのチューリヒに集った若い芸術家のひとりで詩人のトリスタン・ツァラが、自分たちが目指す新しい芸術を【ダダ】と命名し、
詩人フーゴ・バルが【ダダイスム宣言】を起草しました。

 

ベルリン、パリ、ニューヨーク、東京など世界各都市で同時発生的に起きていた
前衛芸術運動がこれに呼応し、文学と芸術の一大ムーブメントへと発展しました。

 

西洋各国の幼児語で様々な意味を持ちながら、ただの無意味な音にも聞こえる『ダダ』
その響きが表すように、ダダイスムは戦時下の虚無感と高揚を反映し
芸術自身を含むあらゆる既存の価値と意味を否定します。

 

美術の分野では、フランス出身でニューヨークでも活動したマルセル・デュシャンが、
『レディメイド(既製品)』
という手法を創案しました。

 

彼は規制の小便器に制作年と架空の作者名を記しただけのものを『泉』と題して展覧会に出品することで、物としての芸術作品の意味を否定し、見る人の既製品に対する概念を変える行為自体が芸術であり、そこから生まれる新しい概念こそが作品であると主張しました。

 

ヨーロッパにおける【ダダイスム】は、1920年代半ばに【シュルレアリスム】などへと分裂しました。

一方、デュシャンの『レディ・メイド』は、発想や概念の想像を重視するコンセプチュアル・アートや大量生産・大量消費とマスメディアに主題を求めるポップアートなど、
第二次世界大戦後の現代美術に決定的な影響を与え、60年代には【ネオダダ運動】として
復興し、
日本でも再流行しました。

 

 

チューリッヒ・ダダ

 

 

1915年頃‐1920年頃

詩人トリスタン・ツァラが名付け親で、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールに集まり
美術について議論とパフォーマンスを行い発足しました。

 

 

 

 

ニューヨーク・ダダ

 

 

1910年代半ばに興ったダダのことを指します。
中心メンバーには、1913年のアーモリー・ショーの後に、
フランスから渡米し。アメリカに居住したマルセル・デュシャンがいました。

マルセル・デュシャンのニューヨーク・ダダは当初、ダダとしての自覚を持ちませんでした。

 

 

 

 

ベルリン・ダダ

 

 

1917年頃~1922年頃

主に政治的、社会的運動でベルリンでのダダは反芸術としては弱く、
ベルリン以外でもパリ・ダダ、ケルン・ダダ、オランダ・ダダと
各地で運動が興りました。

ピカビアはパリ・ダダを立ち上げたひとりです。

 

 

 

ダダイスムの画家たち

 

デュシャン


マルセル・デュシャン

1887年7月28日‐1968年10月2日

フランスの画家、彫刻家。
ニューヨーク・ダダの中心人物で、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人です。

 

1887年、ノルマンディ地方の裕福な家庭に生まれます。
マルセルは7人兄弟の3男で、兄らの影響で少年時代から絵を描き始めます。

 

高校卒業後1904年パリに出て、アカデミー・ジュリアンで絵画を学びました。

初期には『印象派』『フォーヴィスム風』の作品、『階段を下りる裸体』のような
『キュビスム』『未来派』の影響を受けた絵画作品もあります。

 


【階段を下りる裸体No.2】1912年

 

30代半ば以降にはほとんど作品らしい作品を残していません。
『絵画』らしい作品を描いていたのは1912年頃まででそれ以降は油絵を放棄してしまいました。
油絵を放棄した後、『レディ・メイド』と称する既製品による作品を発表しました。

 

 


【泉】1917年

 

 

 


【L.H.O.O.Q】1919年

 

 

 


【彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも】1915年‐1923年

 

 

ピカビア


フランシス・ピカビア

1879年1月22日‐1953年11月30日

本名フランシス=マリー・マルティネス・ピカビア
フランスの画家、詩人、芸術家、イラストレーター、雑誌編集者。

 

デュシャンやマン・レイとともに行動したダダイストとして知られています。
印象派や点描主義といった初期近代美術を経て『キュビスム』
その後は『ダダ』『シュルレアリスム』と関わります。

 

1895年、16歳の時にロートレックやゴッホも学んだというパリの装飾美術学校に入学します。
同時期にフェルナンド・コモンに師事するようになります。

パリの装飾美術学校卒業後、後期印象派を学び20歳になって絵画で生計を立て始めました。

 

ピカビアはシスレーやモネ、シニャックの模倣に過ぎない自分自身の絵に対して
疑問を持ち始めます。
『モネの聖堂に似ている』『シスレーの真似』など批評されました。

 

マルセル・デュシャン、マン・レイとともにアメリカのダダを推進した重要人物の一人で、
のちに『シュルレアリスム』へ転向しましたが、すぐに離脱してしまいます。

 

 

 


【愛のパレード】1917年

 

 

 


【バランス】1919年

 

 

 


【アダムとイヴ】1931年

 

 

 

ツァラ


トリスタン・ツァラ

1896年4月16日‐1963年12月25日

本名サミュエル・ローゼンストック
フランスの詩人、エッセイスト、パフォーマンス・アーティスト。

ツァラはスイスのチューリッヒで『反芸術』を掲げた【ダダイスム】の創設者であり、
中心人物のひとりです。

 

思春期のツァラは象徴主義に興味を持つようになり、
画家のマルセル・ジャンコらとともに美術雑誌『Simbolul』を発行します。

 

第一次世界大戦時にスイスのチューリッヒへ移動し、
ツァラもまたキャバレー・ヴォルテールなどさまざまなショーを行いました。

 

1916年に『キャバレー・ヴォルテール』を発行し、ダダ運動を開始します。
この雑誌で始めて『ダダ』という言葉が使用されました。

 

1918年にダダの集会で【ダダ宣言1918】を発表。
正式にダダの本格的な活動が行われるようになりました。

 

『ダダ宣言1918』を発表後、1919年にパリへ移動します。
ツァラはダダの重要人物のひとりとして雑誌『文学』に編集として参加、
のちの【シュルレアリスム・ムーブメント】を興す最初のステップとなりました。

 

 


【ダダ宣言1918】集会のポスター

 

 

 

 


【ダダ3】表紙 1918年

 

 

 

マン・レイ


マン・レイ

1890年8月27日‐1976年11月18日

本名エマニュエル・ラドニツキー
アメリカ出身で主にフランスのパリで活動した画家、彫刻家、写真家、映画監督。

ダダイスムやシュルレアリスムの正式メンバーではありませんでしたが、
各ムーブメントを推進した重要な人物でした。

 

ダダではマンセル・デュシャン、フランシス・ピカビアらとともに
ニューヨーク・ダダの活動において
重要な役割を果たし、シュルレアリストたちの集合写真
撮影し、記録したことに貢献しています。

 

マン・レイは子ども頃から芸術や機械工作に対する才能を開花させていました。
高校では建築家になるための製図や機械工学などを学びました。

 

この頃に身に着けた製図学は、基本的な美術の技法の土台となり、
また在学中は地方の美術館をよく訪れては過去の美術の巨匠たちの作品を独学で研究していました。

 

両親は絵描きになることに反対していたため、内緒で絵を学びました。
小遣いが少なくなると、画材店で絵具を盗んでいました。

 

マン・レイの絵画の熱意に負けた両親は、自宅をリフォームし小さなスタジオを与えました。
その後、自宅スタジオでプロの絵描きになるため活動を続けました。

 

 


【贈り物】1921年

 

 


【涙】1932年

 

 

 


【破壊されるオブジェクト】1964年

 

 

ダダイスムの終焉

 

当初ダダの運動は新鮮でしたが、
戦争の終結と社会の安定化により終わりを迎えます。

ダダイスムは既成概念、固定概念を徹底的に壊すという役割を
アートに持たせました。

 

 

まとめ

今回は【ダダイスム】についてお話してきました。

 

ダダイスムをまとめると

・物ではなく発想自体が作品
・芸術自身を含む既存の価値と意味の否定
・新しい概念こそが作品

という感じです。

 

次回は【シュルレアリスム】についてお話していきます。

それではまた!

 

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