アクリル絵の具で描いた作品
【薔薇】Ver.2.0
こんにちは!絵描きの川原です。
今回は【ドイツ表現主義】についてお話していきます。
表現主義とはその名の通り、感情を表に現す芸術という意味です。
20世紀初頭に北欧で流行した詩や絵画を中心とした近代美術運動です。
それでは解説していきます。
ドイツ表現主義とは
フランツ・マルク【小さな青い馬】
表現主義を英語でいうと『エクスプレッショニズム』で、『インプレッショニズム』(印象主義)の対語になります。
外界の対象が画家の内面に与えた印象を描くのが印象主義で、
画家の内面を外界の対象に投影するのが表現主義です。
ポスト印象主義のゴッホやゴーギャンあたりから芽生えていた表現主義は、
20世紀初頭のドイツで開花しました。
ラテン的な形式性よりもゲルマン的な精神性を重んじる国民性と、相性がよかったからなんです。
ドイツ表現主義の先駆者は、世紀末のベルリンで活躍したノルウェー出身の画家ムンクです。
有名な【叫び】をはじめ、愛と死をテーマに生の不安を表現した作品は、
平面的表現や強烈な色彩も含め、ドイツの若い画家たちに大きな影響を与えました。
同じころ、北ドイツのヴォルプスヴェーデに、モダーゾンと後に彼の妻となるベッカー、
フォーゲラらが住み、芸術家村を設立しました。
20世紀に入ると、絵画や建築で表現主義的な活動を開始します。
『橋』(ブリュッケ)と『青騎士』(ブラウエ・ライター)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
【『ブリュッケ』の画家たちの肖像】1926年-1927年
1905年にはドレスデンで、キルヒラーらが芸術家集団『橋』を結成しました。
翌年にはノルデらも参加して、次代への『架け橋』となりました。
1911年にはミュンヘンで、マルクとロシア出身のカンディンスキーが『青騎士』を結成。
ヤウレンスキーや、マッケ、ミュンター、クービン、クレーらが参加し、
展覧会にはマティスやピカソらフランスの画家の作品も展示しました。
さらにはシェーンベルクら新ウィーン楽派の作曲家も招聘(しょうへい)し、
表現主義的な総合美術を目指します。
ウィーンでは、クリムトに師事しながらも自らのすべてをさらけ出す私小説的な絵画を描いた夭折の画家シーレや、ベルリンの表現主義雑誌『嵐』(シュトゥルム)の同人でもあったココシュカが、独自の表現主義を展開しました。
表現主義は、激しい色彩で画家の内面を主観的に表す点で、フォーヴィスムに通じます。
また、目に見えない感情を視覚化した時点で、具体的な物の姿を借りず純粋に色と形だけで表現する抽象主義への道を拓きました。
表現主義の画家と作品
ムンク
エドヴァルド・ムンク
1963年12月12日‐1944年1月23日
ノルウェー出身の画家、版画家。
【叫び】の作者として世界でもっとも有名な表現主義の画家です。
ムンクの【叫び】という作品は、美術に興味がない方でも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ムンクが生まれた家系は虚弱体質で、5歳の時に母を、14歳の時に姉を結核で亡くし幼い頃から死が身近にありました。そのこともあり病床の光景が繰り返して作品に現れるようになります。
ムンク自身も慢性的な精神疾患、遺伝的欠陥、性的自由、人間性や死に対して大きな関心を持っていた芸術家でした。
そのため強烈な色彩や半抽象的なフォルムで、女性のヌードやセルフポートレイトを描いていました。ゴッホやゴーギャンらからの影響が強く美術史の中ではポスト印象派時代の象徴主義や表現主義の作家として位置づけられています。
【病める子】1885年‐86年 オスロ国立美術館
【叫び】1893年 オスロ国立美術館
【思春期】1894年‐95年 オスロ国立美術館
カンディンスキー
ワシリー・カンディンスキー
1866年12月4日‐1944年12月13日
ロシア出身の画家。美術理論家でもありました。
抽象絵画の創始者の一人で、ドイツとフランスでも活躍し、後に両国の国籍を取得しています。
1896年カンディンスキーが30歳の時に、ミュンヘンの画塾に入り絵を学びます。
この時、象徴主義のフランツ・フォン・シュトゥックに師事します。
1900年にはミュンヘン美術アカデミーに入学し、1906年~07年にパリを旅行しその時フォーヴィスムを知ります。
田園風景を題材とした作品には、フォーヴィスムの影響が表れていて、色彩や太い線が目立ちます。
1911年にフランツ・マルクらとともに『青騎士』を結成します。
ドイツのミュンヘンにあったミュンヘン新芸術家境界に反発して創設されました。
フランツ・フォン・シュトゥックに学んだ象徴主義から、目に見えないものを描こうとする表現主義へと移行し、画面を構成する形を単純化していきます。
【青騎士】1903年
【馬上の二人】1907年
【年刊誌『青騎士』表紙】1912年
マルク
フランツ・マルク
1880年2月8日‐1916年3月4日
ドイツの画家、版画家。
ドイツ表現主義でカンディンスキーとともに【青騎士】を結成した創設者のひとりです。
マルクは動物を主題にした絵画を多く描いていたことで知られています。
1900年にマルクはミュンヘン美術大学に入学します。
1903年から1907年までパリに滞在し、美術館を訪れては多くの巨匠の絵画を模写しながら技術を高めました。
初期作品は、ヴィンセント・ファン・ゴッホの影響を受けた感情豊かな表現主義的な作品でしたが、ロベール・ドローネーの絵画に出会ってから、豊かな色彩やキュビスムの抽象的な構成を絵画に取り入れるようになります。
【小さな青い馬】1911年 シュトゥットガルト州立美術館
【きつね】1913年
【青い馬】1914年
キルヒナー
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
1880年5月6日‐1938年6月15日
ドイツの画家。版画家。ドイツの前衛運動『ブリュッケ』の創設者です。
ブリュッケは20世紀の近代美術革命で大きな衝撃を与え、
【表現主義】というスタイルを確立させました。
1901年ドレスデンのドレスデン工科大学で建築学を学びました。
大学では建築学だけではなく、フリーハンドのドローイングや遠近法での描画や美術史なども一緒に学ぶことができました。1903年から1904年にかけてミュンヘンで美術を学んでいます。
1905年ドレスデンにて画家グループらと『ブリュッケ』を結成しました。
第一次世界大戦勃発後にキルヒナーは兵役に就きます。
1915年に砲撃兵に配属されましたが、精神衰弱が酷かったため除隊になりその後、
療養生活を送りました。
1933年には政権を掌握したナチス・ドイツにより1937年、自分の作品が『敗退芸術』とされ、『退廃芸術展』に32点もの作品が出展されることにショックを受けます。
1938年ダボス・フラウエンキルヒの自宅で拳銃自殺を遂げています。
ダボスにはキルヒナーの作品を多く所蔵した『ダボス・キルヒナー美術館』があります。
【マルツェッラ】1909年‐1910年
【兵士としての自画像】1915年
【病人としての自画像】1918年
ノルデ
エミール・ノルデ
1867年8月7日‐1956年4月15日
本名エミール・ハンゼン。
ドイツの画家。木版画。水彩画家。
ノルデとは出身地の地名です。
デンマークの北シュレースヴィ地方のノルデに生まれます。
ノルデは同時代のドイツ表現主義の画家たちに共通するものがありましたが、
特定のグループに属さず、独自の道を歩んだ画家でもあります。
はじめ木調を学び、そのあとにカールスルーエの工芸学校で学びました。
1899年パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学んだこともあります。
1904年頃から『ノルデ』と名乗るようになったんですね。
ノルデは1906年1月、ドレスデンのアルノルト画廊で個展を開きました。
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら『ブリュッケ』のグループの画家たちは、
ノルデに自分たちが所属しているグループに参加するように要請しました。
しかしノルデは孤独を好む性格だったので、『ブリュッケ』には約1年ほど所属しただけで脱退し、独自の道を歩みました。
ノルデの作品は原色を多用した非常に強烈な色彩と単純化されたのが特徴で、ゴッホやオセアニア美術の影響が見られます。
『水彩』という画材の性能を最大限に生かした作品が多いです。
第一次世界大戦の敗戦に伴い、故郷はデンマークに割譲されました。
ノルデはナチスの政策に共感するところがあり、1920年にはナチ党員になっています。
ヨーゼフ・ゲッベルスは彼の水彩の花の絵を好んでいました。
しかし非常に強烈な宗教画は『宗教への冒涜』『退廃芸術』という批判を浴びました。
ノルデの作品はドイツ中の美術館から押収されて『退廃芸術展』に出展され、
さらし者にされてしまいました。
ドイツ社会から非難を浴び美術院から除名されて絵画制作や画材購入まで禁止、制限されました。
【キリストの頭】1909年
【赤と白のダリア】1925年
【ひまわりと牡丹】1930年
シーレ
エゴン・シーレ
1890年6月12日‐1918年10月31日
【死と乙女】1915年 ウィーン オーストリア美術館
死神はシーレ自身で、少女は彼が長年同棲し、
この年に捨てた『ヴァリ』という名のモデルさんです。
モーダーゾーン
オットー・モーダーゾーン
1865年2月22日‐1943年5月10日
【オットー・モーダーゾーンの肖像】
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー作
【ヤギと農婦のいる農村風景】1889年
ベッカー
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー
1876年2月8日‐1907年11月21日
【自画像】1906年 ドイツ パウラ・モーダーゾーン=ベッカー美術館
ベッカーは、ヴォルプスヴェーデでモーダーゾーンと出会い、結婚しました。
女性のセルフヌードは当時、衝撃的でした。
まとめ
今回は【ドイツ表現主義】についてお話してきました。
ドイツ表現主義をまとめると
・画家の感情を表に現した
・色と形だけで絵画を独立させた
・生の不安を表現した
という感じです。
ドイツ表現主義は、大戦前夜の不安と高揚を強い色彩と激しいタッチで作品に投影したんですね。
今回はここまでにします。
次回は『未来派と構成主義』についてお話していきます。
それではまた!
コメントを残す