【フォーヴィスム】自由で感覚的な激しい色彩で表現するカラフル絵画

アクリル絵の具で描いた作品


【薔薇】Ver2.0

 

こんにちは!絵描きの川原です。

 

前回の記事はこちら↓

【アール・ヌーヴォーと分離派】美術と工芸の融合を目指した総合装飾芸術

 

 

今回は【フォーヴィスム】についてお話していきます。

 

原色を多用した強烈な色彩表現、荒々しい筆のタッチなど
ポスト印象派の画家、ゴッホやゴーギャンのような表現ですが、
色彩を再現のためではなく、感情の表現のために使いました。

この流れを引き継ぎ高めたのが、フォーヴィスムの画家たちだったわけです。

 

それでは解説していきます。

 

フォーヴィスムの始まり


モーリス・ド・ヴラマンク【村】1912年

 

 

フォーヴィスムを直訳すると【野獣主義】という意味になります。

 

1905年の『秋季展』で、マティスらの作品を見た評論家のルイ・ヴォークセルという人物が、
フォーヴ【野獣の檻にいるようだ】と批判したところから命名されました。

 

フォーヴィスムの特徴は、純色の非常に強烈な色彩と筆使いは力強く荒々しいタッチです。
人物や風景など具体的な対象を描きながら実物通りではなく画家自身の好きな色に塗ることで、
画家の主観的な感覚を表現します。

 

平面的な表現が多いことも特徴の一つです。

 

客観性と理論性を重んじたキュビズム『立体主義』と好対照をなし、
20世紀芸術の幕開けを告げる二大思潮の一翼を担いました。

 

中心となった画家、マティスやルオーは、象徴主義のモローの弟子なんですね。
師匠とはまるで違う画風ですが、対象のものを描くより画家の内面を
表現しようとした点では同じです。この流れは、『表現主義』にもつながります。

 

ほかにはデュフィドランヴラマンクらが、【野獣派】の代表です。

 

1910年代に入ると彼らは次第にフォーヴィスムから離れ、
マティスやデュフィはより洗練された色彩表現をして
ルオーは宗教的な精神性を追及しました。

 

ドランは古典的な技法に回帰し、
ヴラマンクはセザンヌに影響された独自の画風を開拓しています。

 

自然の色彩の写生ではなく、自由な色彩による絵画の『創造』
ゴーギャンとナビ派に始まる色彩の革命は、フォーヴィスムに結実します。

 

 

 

 

フォーヴィスムの画家たち

 

マティス


アンリ・マティス
1869年12月31日‐1954年11月3日

 

フランスの画家、彫刻家。
フォーヴィスムの画家の中でも特に有名な画家です。

 

フォーヴィスムの先駆者で、大胆な色彩からマティスは『色彩の魔術師』と呼ばれており、
ピカソマルセル・デュシャンと並ぶほど20世紀最大の巨匠といわれています。

 

後世の芸術家たちに多大な影響を与え、アンディ・ウォーホルなど近代美術の芸術家たちも
マティスから影響を受けていました。

 

後の時代に起こる熱い抽象のルーツと言われています。
(激しい色、激しい筆のタッチで描く抽象画)

ピカソ冷たい抽象のルーツと言われています。

 

マティスは修行時代、アカデミーの中でも熱心にデッサンや模写に取り組み、、
象徴主義の画家、ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を受けることができた画家です。

 

 

野獣派の活動が短期間で終わった後も
20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けました。

 

 

 


【読書をする女性】1895年 マティス美術館

 

 


【マティス夫人の肖像】1905年

 

 


【ダンス】1909年‐10年 サンクトペテルブルク エルミタージュ美術館

 

 

 

 

ルオー


ジョルジュ・ルオー

1871年5月27日‐1958年2月13日

フランスの画家。

ルオーは少年時代にドーミエの版画ギュスターブ・クールベ
エドゥアール・マネの作品を鑑賞します。

家具職人の父のすすめで14歳の時、ステンドグラス職人に弟子入りします。

 

修行しながら装飾美術学校に通い、19歳で画家になることを決意します。
エコール・デ・ボザール国立美術学校に入学。
美術学校でルオーやマティスの指導にあたっていたのは象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローでした。ルオーはアンリ・マティスアルベール・マルケらと学びます。

 

ルオーの初期作品は色の使い方などモローの影響が色濃く、象徴主義の傾向が見られます。
1898年に家族がアルジェリアに移住。
同年にモローが亡くなり、単身パリに残ったルオーは困窮の時期を過ごします。

 

1903年にモローの旧居を開放した『ギュスターヴ・モロー美術館』の初代館長となっています。

 

 


【小さな女曲馬師】1935年 いわき市立美術館

 

 

 


【老いた王】1937年 カーネギー・インスティテュート美術館

 

 

 


【エジプトへの逃避】1946年 パリ国立近代美術館

 

 

 

 

デュフィ


ラウル・デュフィ

1877年6月3日‐1953年3月23日

 

フランスの画家。
北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港町出身。

 

アンリ・マティスの影響でフォーヴィスムの一員として活動していて、
その後のキュピズムやデザインの流行に敏感に反応し、吸収して色彩豊かな独自の画風を確立したんですね。オーケストラや競馬、ヨットレースなど色鮮やかな色彩を表現しています。

 

1895年、18歳の時に美術学校ル・アーヴル市立美術学校へ通い始めました。

学校の友人であった、オトン・フリエスらと共にアーブル美術館でウジェーヌ・ブータンを模写しました。ルーアン美術館ではジャン=バティスト・カミーユ・コロー
テオドール・ジェリコー
ウジェーヌ・ドラクロワを学びます。

 

デュフィはル・アーヴルの港をこよなく愛し、モチーフとしてスケッチしていました。

 

 

 


【サンタドレスの浜辺】1906年 愛知県美術館

 

 

 

 


【エプソム ダービーの行進】1930年 ひろしま美術館

 

 

 

 


【三十年、或いは薔薇色の人生)】1931年 パリ市立近代美術館

 

 

 

 

ドラン


アンドレ・ドラン

1880年6月10日‐1954年9月8日

 

フランスの画家、彫刻家
シャトゥー出身。

 

アンリ・マティスモーリス・ド・ヴラマンクと共にフォーヴィスムを創設したメンバーのひとりです。大胆で色鮮やかな色彩と構図で描いたことで知られています。

 

風景、静物、人物とさまざまな画題の作品があります。
作風もポール・シニャック風の点描に近い技法を使った風景画から、
キュピズム風の生物がまで幅広く描いています。

 

 

絵画を始めたきっかけとして、マティスやヴラマンクとの出会いがありますが、
ドランの父の友人ポール・セザンヌの影響で1895年から独学で絵を描き始めています。

 

 

1898年、アカデミー・カリエールに入学し、そこでマティスと知り合います。
1900年には独学で絵を描いていたモーリス・ド・ヴラマンクと知り合います。

 

ドランとヴラマンクは共同のアトリエを設け、しばらく共同制作をします。

 

 

 


【アトリエでのセルフポートレイト】1903年

 

 

 

 


【室内の情景】1904年 ビュールレ・コレクション

 

 

 


【港に並ぶヨット】1905年 プーシキン美術館

 

 

 

 

 

ヴラマンク


モーリス・ド・ヴラマンク(右)

1876年4月4日‐1958年10月11日

左はアンドレ・ドラン

 

フランスの画家。
パリで音楽教師の子として生まれます。
父はフランドル人でヴァイオリンの教師、母はロレーヌ地方出身でピアノの教師でした。

 

幼少期は父からヴァイオリンを教わっていて絵は描いていません。
絵を描き始めたのは10代後半からで、1893年に画から絵を学び描き始めます。

 

1900年にシャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合います。
二人は絵画の話に夢中になり、意気投合。
その勢いで二人で共同のアトリエを構えるまでになったんですね!

 

1091年には、パリのベルネーム・ジェヌ画廊で開かれたゴッホ展を見に行き、
そこでドランを通じアンリ・マティスに紹介されています。

 

 

 


【画家の父の家】1904年‐05年 ポーラ美術館

 

 

 

 


【雪景色】1921年 ポーラ美術館

 

 

 


【丘の上の家の風景】1925年‐26年 エルミタージュ美術館

 

 

 

 

まとめ

 

今回はフォーヴィスムについてお話してきました。

 

フォーヴィスムをまとめると

 

・強烈な色彩と荒々しい筆使い
・平面的な表現が多く、自分の好きな色で塗る
・画家の主観的な感覚を表現

といった感じです。

 

フォーヴィスムも約5年程と時期も短く、これといった共通の理念もありませんでした。
少し流行ったブームだったんですね!

今回はここまでにします。
次回はキュビスムについてお話していきます。

【キュビスム】あらゆる対象を幾何学的な立体感で表現するデコボコ絵画

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