アクリル絵の具で描いた作品
FINAL FANTASY Ⅸ 禁断の地 ウイユヴェール
こんにちは!絵描きの川原です。
今回は【アール・ヌーヴォーと分離派】についてお話していきます。
アール・ヌーヴォーは『新しい芸術』、分離派は、絵画=美術、額=工芸の融合も重視しました。
分離派は3つに分けられます。ミュンヘン分離派、ウィーン分離派、ベルリン分離派の3つです。
それでは解説していきます。
【象徴主義】の記事はこちら↓
目次
分離派が目指した芸術
19世紀末、ドイツ語圏の諸都市で、アカデミーや官展(サロン)など古い権威から離れ、
自由に活動する芸術家集団が、相次いで誕生しました。
彼らは分離独立を意味するラテン語で『セセッション』(ドイツ語ではゼツェッション)と
名乗ったため、日本では分離派と呼ばれています。
1892年、象徴主義の画家シュトゥックらが、ミュンヘン分離派を結成したのが最初です。
同97年には画家のクリムトや建築家ホフマンがウィーン分離派、
98年には画家のリバーマンらがベルリン分離派を立ち上げました。
絵画の分野に限っていうと、分離派の画風は同時代の象徴主義や、
それに続く表現主義などに含まれます。
違うのは、分離派には画家以外に建築家やデザイナーも参加し、
美術から工芸まであらゆる視覚表現を含む総合芸術を目指したことです。
とくにウィーン分離派は1903年に、建築やインテリア、グラフィック・デザインなどを
より重視したウィーン工房を設立しました。
彼らはが確立した曲線的で平面的な装飾様式は、
ユーゲントシュテル(若者様式)とも呼ばれます。
『芸術工芸運動』(アーツ・アンド・クラフツ)と
『新芸術』(アール・ヌーヴォー)
アンリ・プリヴァ=リヴモン【カブールのカジノ】ポスター 1897年
こうした総合芸術運動の草分けは、イギリスでラファエル前派の後継者モリスらが展開した、
アーツ・アンド・クラフツ運動でした。
モリスらは、工芸を芸術より下に見る古典的アカデミズムを否定すると同時に、
昔ながらの手仕事を奪う近代的工業化をも拒絶しました。
中世の写本を思わせる挿絵本を自分たちの手で印刷し、
家具や壁紙のデザインにも取り組みました。
少し遅れてフランスとベルギーで開花したのが、
アール・ヌーヴォーと呼ばれる装飾芸術です。
絵画ではシェレやロートレックを先駆けとして、チェコ出身のミュシャらが、
カラーリトグラフによるポスター芸術を大成します。
絵画やポスターの分野で、分離派とアーツ・アンド・クラフツとアール・ヌーヴォーに
共通していた特徴は、曲線的で平面的な装飾性です。
建築や工芸ではさらに、植物や昆虫など自然のモチーフを単純化した図柄、
鉄やガラスなど当時の新素材を多用したことも上げられます。
ここでも日本美術の影響は絶大でした。
1895年にパリで『アール・ヌーヴォー館』を開いてブームを支えた画商ビングも、
かつては浮世絵を扱い、月刊誌『芸術の日本』を出版していた人物です。
分離派の画家たち
シュトゥック
フランツ・フォン・シュトゥック
1863年2月23日‐1928年8月30日
ドイツの画家で、版画家、彫刻家、建築家。
テッテンヴァイス(ニーダーバイエルン地方)に生まれ、幼い頃より芸術に触れ
学生時代にはイラストを制作していました。
1882年にミュンヘンの工芸学校と美術アカデミーで学び、
レンバッハとアルノルト・ベックリンの影響を受けます。
その10年後の1892年にはヴィルヘイム・トリュブナーと共に
『ミュンヘン分離派』を設立しました。
シュトゥックの主な作品の画題は、宗教画、神話から寓意画、肖像画、
魅力的な女性を描いていました。
楽園のイヴに知恵のみを食べさせた蛇は、原罪の象徴です。
クリムト
グスタフ・クリムト
1862年7月14日‐1918年2月6日
オーストリアの画家。
ウィーン分離派の創設者です。
クリムトは装飾芸術、絵画、壁画、オブジェ、ドローイングなど様々で、
肖像画など具象的な作品に加え、風景画も制作しました。
ウィーン分離派のメンバーの中で、日本画とその画法に最も影響を受けていたことで知られています。また弟子のエゴン・シーレに大きな影響を与えています。
中心となるモチーフは女性で、率直な愛や性愛表現が特徴です。
日本画と日本画の手法から最も影響を受けていて、
黄金の背景に文様を施し、奥行きのない空間を描きました。
色仕掛けで敵将を酔わせ寝首を掻いた旧約聖書の女傑ユディトは、
サロメと並ぶ世紀末好みの『運命の女』
背景の金の使い方に日本美術の影響が見てとれます。
ギリシャ神話の最高神ゼウスが黄金の雨に化けて
アルゴスの王女ダナエを犯すという場面を綺麗に表現しています。
平面性や薄布の柄が日本的です。
クリンガー
マックス・クリンガー
1857年2月18日‐1920年7月5日
ドイツの画家。版画家で彫刻家でもある。
独特で幻想的な作風で、シュルレアリスムの先駆者ともいわれています。
1874年~75年までカールスルーエの美術学校に学んだ後、
1875年~76年までベルリン・アカデミーで学び、
絵画、版画、彫刻、壁画装飾など幅広く活動していました。
1878年頃から展覧会へ出品を始め、『パリスの審判』など、
象徴主義的な性格の強い具象作品で知られるようになります。
その後パリに渡り、ギュスターヴ・ドレやゴヤの銅版画を研究し、
帰国後ベルリン分離派の結成に参加しました。
特に女性の手袋やモチーフにした連作版画が有名で、性的寓意や社会的暗示に富んだ独自の作風は、
シュルレアリスムの先駆でマックス・エルンストやデ・キリコらに影響を与えています。
【パリスの審判】1886年‐87年 オーストリア ウィーン美術史美術館
リーバーマン
マックス・リーバーマン
1847年7月20日‐1935年2月8日
ドイツの画家で、ベルリン分離派の創設者の一人。
アール・ヌーヴォーの画家たち
シュレ
フランスの画家、イラストレーター。
アール・ヌーヴォーの先駆者のひとり。
ポスターの父と呼ばれており、この分野において人気作家となりました。
シュレは『ロココ美術』のフランス画家アントワーヌ・ヴァトーに心酔していて、
軽やかな動きのある表現をしています。
ポスターには陽気で、優雅で、常に動きのある女性が登場します。
人気クラブのポスターを多色リトグラフで制作し、ロートレックらに影響を与えた代表作です。
ミュシャ
アルフォンス・マリア・ミュシャ
1860年7月24日‐1939年7月14日
チェコ出身の画家。
フランスで活躍したグラフィックデザイナーでイラストレーターです。
アール・ヌーヴォーを代表する画家で、数多くのポスター、装飾パネル、
カレンダーなどを制作しました。
華やかで優雅な女性、風にたなびく衣装、装飾的なモチーフが特徴で、
そのデザインは当時の画家の模範となりました。
現在でも『ミュシャ・スタイル』としてその様式は愛されています。
今の日本でも人気がある、アール・ヌーヴォー絵画の大成者です。
晩年はチェコで油絵を制作していました。
グラッセ
ウジェーヌ・グラッセ
1845年5月25日‐1917年10月23日
スイスの装飾芸術家。
ベル・エポック時代にフランスのパリでポスターデザインやブックデザインなど
さまざまなデザイン分野で活躍しました。
アール・ヌーヴォーの先駆者のひとりです。
1871年には家具、タペストリー、陶器、宝石のデザインの仕事を行いながらキャリアを積み始めます。芸術装飾品は、象牙や金といった高価な素材を巧みに組み合わせて制作された作品でした。
グラッセの作品が、『アール・ヌーヴォー』の様式のパターンの基礎を築いたと考えられます。
1877年、彼はグラフィック・デザイナーに転身し、お金になる作品を作るようになりました。
絵ハガキやフランス、スイス両国の切手などですね。
モーザー
コロマン・モーザー
1868年3月30日‐1918年10月18日
ベーレンス
ペーター・ベーレンス
1868年4月14日‐1940年2月27日
【接吻】1898年
バーン=ジョーンズ
エドワード・バーン=ジョーンズ
1833年8月28日‐1898年6月17日
【廃墟のなかの恋】1892年
まとめ
今回は分離派とアール・ヌーヴォーについてお話してきました。
分離派とアール・ヌーヴォーをまとめると
・美術と工芸、絵画と装飾の融合を目指した。
・日本美術に学んだ曲線性と平面性を進化させた。
・現代のグラフィックアートの原点。
という感じですね。
分離派の作品は、象徴主義的画風で敗退的な歴史画を描いても、
どこかホップで近代的ですね。
今回はここまでにします。
次回は【フォーヴィスム】についてお話していきます。
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