【抽象表現主義】『物を描かない』形と色の純粋絵画について解説します

アクリル絵の具で描いた作品

 


【薔薇】Ver.2.0

 

こんばんは!絵描きの川原です。

今回は【抽象表現主義】についてお話していきます。

1940年代後半から50年代にかけてニューヨークを中心に広まった【抽象表現主義】は、
1946年に美術評論家ロバート・コーツによって命名されました。

具象的なモチーフを描かず、巨大なキャンバスに感情を表現しました。

それでは詳しくお話していきます。

 

 

 

 

【抽象表現主義】とは

具体的な対象を描かず、色と形を自在に構成して『抽象的な概念』を表現或いは想像する
【抽象主義】には、大きく分けて二つの流れがあります。

ひとつは【ドイツ表現主義】から発展し、画家の思想を感情を、具体物の姿かたちを借りずに
色と形で直接表現する『熱い抽象』です。

抽象といっても具体物を単純化したモチーフや有機的な形が残っているのが特徴です。
『青騎士』出身のカンディンスキーやクレーがその代表です。

彼らには、目に見えない音楽を視覚化する試みから抽象表現に進みました。

 

もうひとつは、【キュビスム】をさらに推し進め、思想や感情が入り込まない色と形による
純粋創造を追及した『冷たい抽象』です。

 

無機質で幾何学的な構成が特徴です。
垂直・水平線と三原色しか使わないオランダのモンドリアンや、
具体性を一切排除する【絶対主義】を提唱して正方形ばかり描いた
ロシアのマレーヴィチらが、こちらの元祖になります。

 

この二つの流れは、お互いに影響を与えながら、
第二次世界大戦後の現代美術へとつながっていきます。

 

20世紀初頭に世界中の多くの若者が社会主義に傾倒した理由は、
民族性や伝統にとらわずグローバルな合理性を追及する思想に見えたからなんです。

これは抽象主義を含むモダニズム絵画にも共通する考え方です。

 

1919年にドイツで生まれた芸術工芸学校バウハウスも、
カンディンスキークレーを教授に招き、グローバルなモダニズム芸術を探求しました。

 

世界中のアーティストに影響を与えましたが、
抽象絵画と共産党と外国人が大嫌いなヒトラーが台頭し、1933年に閉鎖されてしまいます。

 

 

抽象表現主義の画家たち

 

モンドリアン


ピート・モンドリアン

1872年3月7日‐1944年2月1日

本名ピーテル・コルネーリス・モンドリアーン
オランダ出身の画家。

ワシリー・カンディンスキーカジミール・マレーヴィッチらと並び、
本格的な抽象絵画を描いた最初の画家です。

 

オランダのアメルスフォールトでプロテスタントの両親の次男として生まれました。
幼少の頃は叔父フリッツの指導の下、よく川辺でスケッチ画を描いていました。

 

プロテスタントの教育を受けた後、1892年にアムステルダム国立美術アカデミーに入学します。
学生時代は写実主義や印象派のスタイルで忠実に描かれ、モチーフは主に故郷の農場や川、風車などでした。

 

アカデミー卒業後、美術教師の資格を取得し、教師と画家を兼任しました。
次第にリアリズムを離れるようになり、印象派やポスト印象派、
特にゴッホやスーラの影響を受けた画風に移ります。

 

この頃になるとモンドリアンは
『色と線がそれ自体でもっと自由に語ることができるように』
することを試みていました。

 

1911年にはアムステルダムにおける美術展でキュビスムの作品に接し深い感銘を受け、パリに行く決心をします。
1912年から14年までパリに滞在し、ピカソやブラックが提唱するキュビスムの理論に従い
平面的・幾何学的な形態へ取り組みます。

 

その過程でモンドリアンは『抽象』への志向を強め、『キュビスムの先』を目指すことになります。

 

 


【赤い水車】1911年 デン・ハーグ市美術館

 

 

 

 


【赤・青・黄のコンポジション】1930年

 

 

 

 


【ブロードウェイ・ブギ・ウギ】1943年 ニューヨーク近代美術館

 

 

 

 

ポロック


ジャクソン・ポロック

1912年1月28日‐1956年8月11日

アメリカの画家。
抽象表現主義(ニューヨーク派)の代表的な画家です。

 

ポロックの画法はアクション・ペインティングと呼ばれ、刷毛に絵の具をたくさん含み
空中から滴らせ、線を描く『ポーリング』という技法を使い始めます。
キャンバスを床に置き、自由に筆をまき散らしたり、垂らしたり、
注いだりして絵具が盛り上がるほど何度も線を重ねています。

 

1912年、ワイオミング州コーディーに生まれ、
芸術家を目指していた母の影響で芸術作品に幼少期から触れながら過ごしました。

 

1928年にロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールで絵画を学び、
その後ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで壁画化のトーマス・ハート・ベントンに師事します。

 

メキシコ壁画運動のダビッド・アルファロ・シケイロスらの助手を努め、
筆だけではなくスプレーエアブラシで描く制作風景に衝撃を受けました。

 

飲酒による問題を起こしていたポロックは入院し治療しながら作品を制作していました。
過度の飲酒を繰り返しては入院するという生活を過ごすようになります。

 

1950年代に入るとポロックの名声は高まり、アメリカの抽象表現主義の頂点に立ちます。
それに伴い、周囲から受ける期待へのプレッシャーによってまた飲酒を繰り返すようになります。

その結果作品の発表数は減少し、アルコールに蝕まれていました。

1958年8月11日、ポロックは飲酒したまま、
猛スピードで車を走らせ交通事故を起こてしまいます。

同乗していた若い愛人と友人を巻き添えにし、44歳という若さで亡くなりました。

 

 



【男と女】1942年

 

 

 
【ポーリングの構成】1943年

 

 

 


【検索】1955年

 

 

 

 

ニューマン


バーネット・ニューマン

1905年1月29日‐1970年7月4日

アメリカの画家、彫刻家。
抽象表現主義の重要な人物です。
カラーフィールド・ペインティングの代表的な画家。

 

カラーフィールド・ペインティングとは
1950年代末から1960年代にかけてアメリカを中心とした抽象絵画の一動向です。
特徴は絵の中に線・形・幾何学的構成など、キャンバス全体をほぼ単色で塗りこんだ表現です。

 

ニューマンはポーランド移民のユダヤ人両親のもと、ニューヨークで生まれました。
ニューヨーク私立大学で哲学を学んだ後、父の服飾業を手伝い、教師、著述、批評で生計を立てます。

 

1930年から絵を描き始めます。
この頃に描いた作品は表現主義風でしたが、それらの初期作品はすべて処分しました。

 

1934年に画家の先生だったアンナリー・グリーンハウスと出会い、
1936年に二人は結婚します。

ニューマンは1940年代に【シュルレアリスム風】を試しながら作品を制作していました。
薄い垂直線で区切られた色の領域をニューマンは【ジップ zip】と名付けました。

初期作品はジップに焦点が当てられ、ジップの初期作品は色面がまだらになっていましたが、
後に色面は単色で平滑なものになりました。

 

 

 

 


【無題】1945年

 

 

 

 


【アブラハム】1949年

 

 

 


【ワンメント6】1953年

 

 

 

 

デ・クーニング


ウィレム・デ・クーニング

1904年4月24日‐1997年3月19日

オランダ出身で主にアメリカで活動した画家です。

 

抽象表現主義の創設者の一人として20世紀抽象表現主義の代表画家です。
デ・クーニングはジャック・ポロックと並ぶ『アクション・ペインティング』の代表的作家で、
激しい筆跡が特徴です。

 

1904年オランダのロッテルダムに生まれ、青年時代は商業美術で働きながら、
ロッテルダム美術工業学校の夜学で学びました。
オランダ時代にはモンドリアンらの『デ・ステイル』運動に触れています。

 

 


【想像上の兄弟とのセルフポートレイト】1938年

 

 

 


【座っている男性】1939年

 

 

 


【インターチェンジ】1955年

 

 

 

まとめ

今回は【抽象表現主義】についてお話してきました。

抽象表現主義をまとめると

・具象的ではなく、物を描かなかった
・垂直線、水平線、3原色など少ない要素で作品を構成した
・絵画以外にもデザイン、建築に大きな影響を与えた

 

抽象表現主義の画家たちの活躍によって
1950年頃から美術の中心はパリからニューヨークであると
考えられるようになったんですね。

 

今回はここまでにします。
次回は【ダダイズム】についてお話していきます。

 

【ダダイスム】既存の芸術を否定する『反芸術』絵画について解説

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