【ロシア構成主義】構成主義の直線的モダニズム絵画について解説します

アクリル絵の具で描いた作品

 


【薔薇】Ver.2.0

 

こんにちは川原です。

今回は【ロシア構成主義】についてお話していきます。

ロシア構成主義は『キュビスム』『シュプレマティスム』の影響を受け、
1910年代半ばにソ連における芸術運動です。

 

それでは解説していきます。

 

ロシア構成主義とは


【おしゃぶりの広告】1923年 モスクワ プーシキン美術館
アレクサンドル・ロトチェンコ

 

ロシアでは1910年代に、マレーヴィチの絶対主義など、
ロシアン・アヴァンギャルドと総称されるモダニズム運動が起きました。

 

そこで生まれた合理的なシンプルさは、1917年のロシア革命後、
『金持ちの趣味ではなく労働者の暮らしに役に立つ芸術を大量生産して安く提供する』という
社会主義の理念に組み込まれ、【ロシア構成主義】と呼ばれる独自の商業美術へと発展します。

 

絵画では、油絵よりもグラフィックアートが主流で、
円や三角形など幾何学図形を多用した直線的でメカっぽい構図と
限られた原色による
シンプルで力強い色彩が特徴です。

 

1925年のパリ現代産業装飾芸術(アールデコラティフ)国際博覧会では、
ロトチェンコと妻のステパーノヴァらが参加したソ連館が大人気でした。

 

絵画から建築、ファッション、雑貨まで革命直後の勢いに乗った斬新な作品群は、
同博覧会から『アール・デコ』と呼ばれる直線的スタイルの流行を決定づけ、
ドイツのバウハウスをはじめ世界中のモダンデザイン界に大きな衝撃を及ぼしました。

 

同時代の芸術運動である『キュビスム』『イタリア未来派』に比べると知名度が低い
『ロシア構成主義』ですが、
10年にも満たない年月で培われたインパクトのある作品があります。

 

 

 

ロシア構成主義の画家と作品

 

ロトチェンコ


アレクサンドル・ロトチェンコ

1891年12月5日‐1956年12月3日

ロトチェンコはロシア構成主義、アヴァンギャルドを先導したと知られていて、
絵画、グラフィックデザイン、写真、舞台芸術など芸術全般に幅広く活躍した多彩な人物です。

 

サンクトペテルブルクで生まれ、タタールスタン共和国のカザンとモスクワで美術を学びました。
カジミール・マレーヴィッチの影響を受け抽象画作品を制作しました。

 

その後、ウラジミール・タトリンに師事し、ロシア構成主義のメンバーとなりました。

 

 


【ディスクと蓋】1919年

 

 

 

【国営出版社レニングラード支部の広告】1924年 ロシア プーシキン美術館

 

 

 

 


【階段】1929年

 

 

 

 

タトリン


ウラジミール・エヴグラフォーヴィチ・タトリン

1885年12月8日‐1953年5月31日

ロシアの画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家

 

ロシア構成主義の創始者で、ロシアのアーティストとして知られるタトリンは、
今現在でいうインスタレーション・アートや空間デザインのような表現を取り入れた彫刻作品を
数多く残しました。

 

14歳の頃に家出し、生計を立てるために働いていました。
1902年17歳になったタトリンはモスクワにある美術学校に通い始め、
絵画、彫刻、建築について学びました。

 

1904年に父が亡くなり、タトリンは芸術学校を中退しなければなりませんでした。
その後ウクライナのオデッサで水兵としてエジプトやシリアなど各地を航海しました。

 

翌年の1905年には再びロシアのペンザにある芸術学校に通い始め、
1910年まで美術について学びました。

 

 

 


【コーナーカウンター・レリーフ】1915年

タトリンは金属や木片など様々な素材からレリーフを作り、これを構成と呼びました。
構成主義の名前の由来はここから始まったんですね。

 

 

 

 


【第3インターナショナル記念塔】1919年

 

 

 

リシツキー


エル・リシツキー

1890年11月23日‐1941年12月30日

本名ラーザリ・マールコヴィチ・リシツキー
ロシアのグラフィックデザイナー、ブックデザイナー、展示デザイナー、建築家、写真家。

 

『ロシア構成主義のウィリアム・モリス』と称されるロシアを代表する芸術家です。
絵画と建築を中心に写真や舞台芸術など幅広いジャンルで活躍しました。

 

政治プロパガンダを絵画やグラフィックで表現しロシア構成主義の中で、
有名なイメージを形にした第一人者です。

 

リシツキーは子供の頃から絵の才能がありました。
ユダヤ系の画家イェフダ・ペンから絵画を習っており、15歳になるころには教える立場になるほどでした。

 

リシツキーが19歳の時、サンクトペテルブルクの美術学校を受験しますが、
入学拒否されてしまいます。

当時ロシア皇帝であるニコライ二世による先生政治体制下であったためです。
ユダヤ人の職業選択に制限があった為なんですね。

 

ロシアに住んでいたユダヤ人がドイツへ留学したように、リシツキーもドイツへ留学しました。
ダルムシュタット芸術学校に入学したリシツキーは建築を学びながら、
ヨーロッパ各地を旅しながらスケッチし、美術について独学で技術を磨いていきました。

 

 


【赤き楔で白を撃て】1919年

 

 

 


【プロウン】1922年 ニューヨーク近代美術館

 

 

 

まとめ

今回は【ロシア構成主義】についてお話してきました。

ロシア構成主義をまとめると

・油絵よりもグラフィックが主流
・原色によるシンプルで力強い色彩
・幾何学的図形を多用したメカニックっぽい構図

という感じです。

 

次回は【抽象主義】についてお話していきます。

それではまた!

 

【抽象表現主義】『物を描かない』形と色の純粋絵画について解説します

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