ジョット・ディ・ボンドーネってどんな画家?代表作品など解説します

 

 

アクリル絵の具で描いた作品

 

 

こんにちは!絵描きの川原です。

 

今回から西洋美術史で有名な画家、アーティストやその代表作品などを紹介していきます。

最初は『ジョット・ディ・ボンドーネ』についてお話していきます。
ジョットは絵画を【三次元化】した画家でもあります。

それでは解説していきます。

 

 

ジョット・ディ・ボンドーネとは

ジョット・ディ・ボンドーネ
1267年頃‐1337年1月8日

中世後期のイタリアの画家、建築家。
フィレンツェ共和国の首都フィレンツェ近郊の出身。
(今現在のイタリア・トスカーナ州近辺)

イタリア・ルネサンス期に大きな影響を与えたジョットは、
二次元の平面に三次元の空間を表現しようとしたことです。

それまでは奥行きがない平面で二次元的な絵画ばかりでした。

この当時、絵を描く支持体と言ったら壁画か木の板に絵を描いていたんですね。
板絵(タブロー)です。

ジョットの師匠はチマブーエ
チマブーエも西洋美術史上重要な画家として知られています。

チマブーエ

 

フィレンツェ近郊の農家に生まれたジョットは、羊飼いをしていました。
岩に描いた絵を画家であるチマブーエに見出されスカウトされます。

 

ジョットはいたずらで描いた蠅の絵を師チマブーエは本物だと思って
追い払おうとしたなどジョットの天才ぶりが伺えます。

 

ビザンティン様式が支配的だった当時、西洋絵画に三次元的な空間表現
人物の自然な感情表現をもたらしたんです。

 

その描写は、前景である人物は中景に描かれている建物や遠景の風景と比例して描かれていて、
自然な大きさで表現されています。

このような描写方法は、当時では革新的なものでこの点からジョットは
『西洋絵画の父』といわれています。

日本でもジョットと呼ばれることが多いです。

 

 

ジョットの生涯

フィレンツェの鍛冶屋の息子として生まれます。

幼少期のジョットは羊飼いの陽気で知的な子どもで周りの人たちは彼を愛していました。

 

当時のフィレンツェの偉大な画家チマブーエは、ジョットが岩に描いた羊の絵を偶然見かけ、
まるで生きているかのように描写されていたため、
ジョットの父親に掛け合ってジョットを弟子に入らないかと声をかけました。

 

チマブーエはシエナを中心に活躍していたドゥッチョとともにトスカーナ地方で
もっとも有名な画家でした。

 

先ほどジョットが描いたハエの絵を師チマブーエが絵筆で追い払おうとしたお話は、
ジョルジョ・ヴァザーリがジョットの腕前を関する話をいくつも持っていました。

 

ジョルジョ・ヴァザーリ

 

これは他のお話ですが、教皇ベネディクト11世がジョットに使者を送り、
技量を確かめるため絵を送ってほしいと頼みました。

 

ジョットはコンパスを使って描いたかのような完璧な赤い円を描き、
それを教皇に送るように使者に指示しました。

 

その使者は、馬鹿にされたと思い、不満を抱いて去っていきました。
使者はジョット以外の他の画家の絵を教皇に持ち帰りました。

 

使者が『腕を動かさず、コンパスを使わずに円を描いた。』と教皇に伝えると、
教皇と廷臣たちは、ジョットの技量が同時代の全ての画家を凌駕していることに気がつき
さらに驚いたといいます。

 

1287年にジョットは20歳前後に、シウタ(本名リチェヴータ・ディ・ラポ・デル・ペラ)と結婚します。
8人以上の子どもが生まれ、そのうちの1人フランチェスコは画家となりました。

 

 

 

画家としての活動


【ユダの接吻】1305年 スクロヴェーニ礼拝堂

 

ジョットは1297年から1300年の間、ローマで活動していました。
(今ではその記録はほとんど残っていませんが・・・)

 

1301年にフィレンツェに家を所有し、旅をしていない時は家に帰って、
家族と幸せに暮らしていました。

 

1300年代初頭、フィレンツェで複数の絵画の依頼を受けています。

 

ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂には、
ローマ教皇ボニファテウス8世による1300年の聖年記念として
描かれたフラスコ画の一部が収蔵されています。

 

 

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂

 

 

同時期にフィレンツェのウフィツィ美術館に収蔵されている
『バティア多翼祭壇画』も描いています。

 

【バティア多翼祭壇画】1300年頃 フィレンツェ ウフィツィ美術館

 

 

 

ジョットの初期作品

 

ジョットの初期作品は、サンタ・マリア・ノヴェッラのドミニコ会に依頼されたものが大半でした。

 

その中には、受胎告知のフレスコ画やkyダイナ吊り下げ式の十字架が含まれています。
これらの作品は1290年頃のもので、アッシジ聖堂のフレスコ画と同時代のものと考えられてます。

 

それ以前は作品は、フィレンツェにあるサント・ステファノ・アル・ポンテ教区美術館の収蔵されている【サン・ジョルジョ・アッラ・コスタの聖母像】やルーヴル美術館に収蔵されている
【聖フランチェスコの汚名返上】があります。


【サン・ジョルジョ・アッラ・コスタの聖母像】

 

 

【聖フランチェスコの汚名返上】

 

この頃からジョットは画家として名声が広がり、パドヴァやリミニといった都市に招かれて絵画制作の依頼を受けるようになったのですが、1309年以前に描かれた十字架しか残っておらず、
それはマラテスティアーノ教会の【キリスト十字架】です。

 

当時のジョットは、フィレンツェに大邸宅を構えていて、さらに大規模な工房を経営しながら
イタリア全土から絵画制作依頼を受けていたとされています。

 

 


【キリスト十字架】 マラテスティアーノ教会

 

 

 

傑作【スクロヴェーニ礼拝堂の装飾絵画】


スクロヴェーニ礼拝堂

 

1305年頃、ジョットは構成に非常に大きな影響を与えた、
パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の内部フレスコ画を制作しました。

 

この礼拝堂は、依頼主であるエンリコ・デッリ・スクロヴェーニが近くにあった自身の教区教会とは別に一族の礼拝所兼墓所として建てられたものでした。

 

礼拝堂の装飾のテーマは『救済』で、聖母マリアに重点を置いていて、
『受胎告知』『慈愛の聖母』が捧げられています。

 

フレスコ画は身近なキリストの挿絵以上のものであり、
学者たちはジョットの神聖な物語に対する解釈を理解するのに多くの情報源があり、
ジョットがもたらした革新性は『読み書きが出来ずに理解力に乏しい者のための聖書』として
解釈されています。

 

書物を絵画として表現しただけでなく、絵画から聖書に対するジョット独自の解釈だったんですね。

 

 


スクロヴェーニ礼拝堂内部

このフレスコ絵画は、37の場面に分けられていて側面の壁に上中下3段に分かれています。

最上段には聖母マリアの両親が描かれ、聖母マリアの生涯を表現した最初の絵画になっています。
下の2段にはキリストの生涯が描かれていて、『最後の審判』は正面と反対側の壁全面に描かれています。

 

 

晩年

1328年フィレンツェ、サンタクローチェにあるバロンチェッリ礼拝堂の祭壇画が完成しました。
それまではジョットの作品とされていましたが、現在ではアシスタントの作品がほとんどだと見られています。

 

1332年には、ロバート国王から『宮廷画家一号』に認められ、
年俸が支給されるようになりました。

 

1334年、フィレンツェ大聖堂の主任建築家に任命されたジョットは、同年7月18日に着工した
『ジョットのカンパニレ』として知られる鐘楼を設計。

ジョットは1337年1月に死去しました。

 


ジョットの鐘楼

 

 

作品

 


【東方三博士の礼拝】1305年頃 スクロヴェーニ礼拝堂

 

 


【荘厳の聖母(オニサンティの聖母)】1310年頃 ウフィツィ美術館

 

 


【キリスト磔刑】1320年‐1325年頃 ストラスブール・ボザール美術館

 

 

 

まとめ

 

今回は『ジョット』についてお話してきました。

画家ジョットは、後のルネサンス期や西洋絵画に大きな影響を与えた偉人だったんですね。
ジョットの偉大な功績によって西洋絵画は新たなステージの幕を開き、ルネサンスの準備を整えた画家でした。

 

今回はここまでにします。
次回は『サンドロ・ボッティチェリ』についてお話していきます。
また次の記事でお会いしましょう!

ではでは!