生粋の彫刻家ミケランジェロとは?その生涯と代表作品を解説します

 

 

 

アクリル絵の具で描いた作品

 

こんにちは絵描きの川原です。

今回は【ミケランジェロ】についてお話していきます。

ミケランジェロは盛期ルネサンスの三大巨匠の一人です。

一人はレオナルド・ダ・ヴィンチ
もう一人はラファエロ・サンティです。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチとの関係についてもお話していきます。

レオナルドが芸術のほかに科学や光学など様々な分野を研究したのに対し、
ミケランジェロは芸術、特に彫刻に専念しました。

 

 

ミケランジェロとはどんな芸術家?

本名:ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ

生まれ:1475年3月6日‐1564年2月18日

生まれた場所:フィレンツェのカプレーゼ

活動した場所:フィレンツェ、ローマ

代表作:ダヴィデ像、最後の審判

ライバル:レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

ルネサンス芸術の三大巨匠の一人として数えられる中で、長く生きた芸術家でした。
88歳という長寿だったんですね。

ミケランジェロはかなり気難しい性格の人物で、有名な作品の中に『システィーナ礼拝堂』の天井画があります。
彼はこの絵の制作依頼を受けたとき、断っていました。

 

なぜ依頼を断ったのかと言えば、『自分は彫刻家だから』というものでした。

長い人生で一度も結婚したことがなかったそうです。

 

レオナルドが芸術のほかに科学や工学など様々な分野に進出したのに対し、
ミケランジェロは芸術、特に彫刻に専念しました。

 

ミケランジェロは当時、教皇やメディチ家など有力な人間から制作依頼を受けていました。

 

その中でも、彫刻家で男性の肉体こそ美しいと考えていて、
女性の彫刻も男性をモデルに作ったように、女性もマッチョです。

 

これには男性の肉体美を魅せるべく、最後の審判には数多くの男性の裸体が描かれました。

 

あまりに裸体が大量に描かれていたため、あとになって『他の画家』が褌を描き足す
という尻拭いをさせられ、それ以降その画家は『ふんどし画家』呼ばわりされたそうです。

 

これはあまりにもヒドイ話ですね。

 

 

ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチ

 

ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期を代表する天才芸術家です。
同じ時代を共に生きていて、年齢差は23歳程でした。レオナルドが年上です。

 

二人とも天才で、天才同士はお互いを意識しないということはなく、
相手の技法や技術を研究しあっていたそうです。ですが二人はあまり気の合う関係ではなかったようです。

 

これには『主義』の違いからそうなってしまったと言われているんですね。

 

ミケランジェロ『彫刻』こそ最高の芸術だと信じ、
レオナルド・ダ・ヴィンチ『絵画こそ最高の芸術だと考えていました。

 

実際にミケランジェロとレオナルドは口論になってしまう場面もあったと伝えられています。

 

 

 

ミケランジェロの作品集

 

ピエタ

 

【ピエタ】

1498年‐1500年 ヴァチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂

 

イタリア語で『哀れみ』『慈愛』という意味です。

キリスト教美術において、聖母マリアが磔刑にかけられた亡きキリストを抱くシーンを扱った作品です。
ミケランジェロが生涯描いたテーマが、聖母子像でした。

 

このほかにも3点『ピエタ』の彫刻作品が残っています。
本作品は最初に制作され、唯一完成した作品といわれています。

 

この作品を制作した当時、ミケランジェロはまだ無名で年齢も若く、
ほかの芸術家の作品ではないかという噂が立ちました。

 

この噂に腹を立てたミケランジェロは、聖母マリアの帯のような部分に自分のサインを掘ったといわれています。

 

サインを入れた後、後悔したミケランジェロはこの彫刻作品以降にサインを入れないことを誓いました。長いキャリア人生の中で、唯一サインが入った作品となりました。

 

 

 

ダヴィデ像

【ダヴィデ像】

1504年 フィレンツェ アカデミア美術館

 

旧約聖書に登場する羊飼いの少年『ダヴィデ』をモデルにした作品です。
大理石で制作された盛期ルネサンス期の傑作です。

 

世界で最も知られている彫刻のひとつで、
当時フィレンツェで好まれていた主題『ダヴィデとゴリアテの戦い』を表現した彫刻作品です。

身長3mの大男ゴリアテに石を投げて倒すシーンを表現しています。

 

 

ミケランジェロは権力に屈しない自身と頑固さが垣間見れる面白いエピソードがあります。

 

有名なダヴィデ像の鼻の高さが気に入らなかった教皇は、
制作中のミケランジェロに対し、鼻を低くするよう命じます。

 

これに対し、ミケランジェロは乗り気のない生返事で答え大理石の粉をまき散らしながらノミをふるい、鼻を削るフリをして誤魔化しました。教皇は何もわかっていないと思ったんですね。

 

この誤魔化しに気が付かなかった教皇は、何一つ変わっていないのに、
『良くなったw』と喜んだようです。

 

また壁画の進み具合について教皇から『いつ終わるのか?』と尋ねられ
ミケランジェロは教皇に対し、『私が出来るときにできる』と言い張ったようです。

 

 

 

最後の審判

【最後の審判】

1541年‐1547年 システィーナ礼拝堂 ヴァチカン

 

ローマ教皇ユリウス2世に彫刻の肉体的な美に魅入られ、絵画に取り入れた作品が絶賛されました。
ミケランジェロは教皇から気に入られ、制作依頼を受けるようになります。

 

しかし教皇からの依頼は彫刻ではなく『絵画』ばかりでした。
彫刻家の自分に絵画制作ばかり来ることに不満が募りました。

 

それ以来ミケランジェロは教皇に振り回される生活を送るようになります。

 

教皇の墓碑を作るよう命じられますが、突然中止を言い渡されたり、
制作のために用意した大理石の代金を踏み倒したり・・・

 

さすがのミケランジェロも我慢の限界になり、教皇に対し怒りを爆発させ仕事を放り出してフィレンツェへ帰ってしまいます。

 

教皇に振り回されフィレンツェに帰ったミケランジェロは、なんとか教皇と和解して、再びローマへ戻ります。

 

ですがローマに戻ってきたミケランジェロを待っていたのは、
システィーナ礼拝堂の天井画の仕事だったのです。

彫刻家なのになぜ画家の仕事をしないといけないのかと不満に思い、
当初はラファエロを推薦して制作依頼を断りました。

 

 

しかし依頼主は教皇。

ミケランジェロは、不満を抱えながらしぶしぶ受注することになったんですね。

 

初めはキリストと12使徒のみを描く予定でしたが、『もっと豪華に!』という要望により
天井全体を埋めつくす絵画になりました。

 

画面全体で300名ほどの人物が犇めき合っていて迫力満点です。

 

長時間天井を向いて描いていたため、天井から滴る絵の具が目に入り失明したとも伝えられています。

 

 

【バッカス像】1497年 バルジェロ美術館 フィレンツェ

 

 

【システィーナ礼拝堂天井画】1508年‐1512年 システィーナ礼拝堂 ヴァチカン

 

 

 

【アダムの創造】1508年‐1512年 システィーナ礼拝堂 ヴァチカン

 

 

【ミネルヴァのキリスト】1521年 サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

 

 

 

 

 

まとめ

 

今回は【ミケランジェロ】についてお話してきました。

ミケランジェロという芸術家がどのような人物で、どんな作品を作ったのかについて解説してきました。
彫刻家であり、画家の一面も見せていたミケランジェロ。

ミケランジェロの作品は、作品サイズが非常に大きくその迫力はもの凄いんですね。

天才芸術家なだけあり、ユニークなエピソードも多く、
とても面白い時代だなぁと感じます。

 

今回はここまでにします。
またほかの記事でお会いしましょう!