ボッティチェリってどんな画家?代表作やヴィーナスの誕生について解説

 

 

アクリル絵の具で描いた作品

 

 

こんにちは絵描きの川原です。

今回は『サンドロ・ボッティチェリ』という画家についてお話していきます。

『ボッティチェリ』はテンペラ画という『卵』を使ったテンペラ絵の具を使って

ルネサンス期の巨匠となりました。

この画家はどんな人物だったのか、どのような作品が作られたのかということを
わかりやすく解説していきます。

 

 

ボッティチェリってどんな画家?

 


サンドロ・ボッティチェリ

 

本名:アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーリ

生没年:1445年3月1日-1510年5月17日

生まれ:イタリア フィレンツェ

師匠:フィリッポ・リッピ

初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表画家です。

 

メディチ家に支えられ、宗教画やギリシャ神話をモチーフにした神話画などの数多くの傑作を残しました。
当時、経済的に繁栄したフィレンツェの裕福な市民への注文に応えたものでした。

ボッティチェッリは3人の兄がいて、そのうちの一人が太っていたことから『小さな樽』という意味であだ名が付けられていました。

ここで『メディチ家』という存在について、少し解説していきます。

メディチ家は『ルネサンス期』のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭していました。
ルネサンスの中心だったんですね。

 

ここでルネサンス美術が発展しました。

 

このルネサンス美術の発展に大きく貢献したのが『メディチ家』でした。

当時、『コジモ・デ・メディチ』というメディチ家の人間が、フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後のトスカーナ大公国の君主となりました。

 

それから60年に渡りメディチ家の権力が続きました。

 

メディチ家の当主たちは有り余る財産で、才能のある芸術家たちのパトロンとなり支援していました。
その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリなど多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で非常に大きな役割を果たしました。

 

この時代に数々の芸術があるのはメディチ家という存在があったからこそ、今現在でも当時の作品が多く残っているんですね。

 

因みにボッティチェリの師匠であった『フィリッポ・リッピ』を支えていたのも
メディチ家初代当主コジモ・デ・メディチでした。

 

 

ボッティチェリの代表作品

【ヴィーナスとマルス】1483年 ナショナル・ギャラリー

 

数多くの名画を残しボッティチェリは、
『ヴィーナスの誕生』『春(プリマヴィーラ)』『東方三博士の礼拝』など
作品を挙げるとキリがないほどです。

 

独特の美しさと優雅なフォルムが特徴で、人物の表現性が特に高いと評価されています。

ルネサンス幕開けを告げた作品として『ヴィーナスの誕生』が有名です。

 

当時の中世ヨーロッパでは、キリスト教の支配下であり絵画のモチーフとして裸体は禁止されていたんですね。
異教的で官能的な美しさと緻密で優雅な表現がいたるところに使われている、
フィレンツェ・ルネサンスを代表する作品となっています。

 

この『ヴィーナスの誕生』は、女神ヴィーナスが海から現れた『ギリシャ神話』の一部として描かれています。

 

【ヴィーナスの誕生】1485年 ウフィツィ美術館

 

 

 

【春(プリマヴィーラ)】1477年‐1478年 ウフィツィ美術館

 

【春(プリマヴィーラ)】もボッティチェリの代表作として有名な一枚です。

この絵の中には数々の女神が描かれています。中央にいるのがヴィーナスです。

左側に手を繋いで輪を作っている三人が三美神『愛・貞節・美』です。
右側にいる二人は同一人物です。

 

西風の精ゼフゥロスに息を吹きかけられたクロリスが花の女神『フローラ』へと変身するシーンですね。

 

この絵はメディチ家一家の『ロレンツォ・ディ・ピフランチェスコ』という人物の結婚祝いに描かれたものだと言われています。

 

絵の題材として神話が扱われる事はほとんどなっかた当時、ボッティチェリは画期的なことを行っていて、『神話画』という全く新しいジャンルを開拓した人物です。

 

この二つの作品にも言えることですが、ボッティチェリの作品は遠近法やリアルな明暗を重視していません。

 

メディチ家の人々を描いた『東方三博士の礼拝』

この絵の場面には、多数の人物が登場しています。その中には『メディチ家』の人々が何人かいます。

コジモ・デ・メディチは聖母の前にひざまずく王として表現されていて、
息子のピエロ(赤いマントを着て、中央にひざまずく二人の王として表現されています。)

孫のジュリアーノとロレンツォ、東方三博士として描かれた3人のメディチ家の人物は、
絵が描かれた時点で全員亡くなっていて、フィレンツェは実質ロレンツォによって支配されていました。

 

この絵にはボッティチェリ本人が右端に黄色いマントを着た金髪の男として自画像を描いたといわれています。

 

【東方三博士の礼拝】1475年‐1476年 ウフィツィ美術館

 

 

 

まとめ

 

今回はルネサンスの巨匠『ボッティチェリ』についてお話してきました。

ボッティチェリは写実性にこだわらずに、かなり細かい線描によって髪の毛一本一本表現していたり、華麗で美しい仕事に重きを置いていたんですね。

 

では今回はここまでにします。
またほかの記事でお会いしましょう!